孤独にそっくり

開いている窓の前で立ち止まるな

検索するのめんどくさい

知りたいことがあっても、ググってすぐに出てくるわけじゃない。クエリを変えたり組み合わせたり試行錯誤しなくちゃいけない。吐き出された結果は情報量が殆ど無いブログや、出典不明の謎理論を羅列したサイトだったりする。
ニューロマンサー攻殻機動隊や、そういったSFの世界ならば脳みそをインターネットにつないでビューンとすれば知りたいことは全部手に入りそうに見える。現実はそんなこと無くて、そこら中にゴミ情報が氾濫していて、手がつけられない状態になっている。それでもみんな効率的に情報を収集したいからキュレーターが幅を効かせるようになる。でもそれも、まちまち。


やっと知りたい情報に行き当たったとしても、詳しい説明がないことはままある上に、周辺情報があることは少ない。
はっきり言って、本を読んだほうが効率的なんじゃないかと思ってしまう。そんな今日このごろ。

博士も知らないニッポンのウラ」で、宮崎哲弥宮台真司苫米地英人とが出てて、メディアの意義について話していた。そこで、「新聞、雑誌、テレビの違いは、時差にある。テレビはなるべく生の情報、新聞は少し時差があるから解釈を加える。雑誌は更に時間があるから俯瞰的に見る。その上が本。」みたいなことを言っていたと思う。あと、「メディア自体も社会の一部であるのに、あたかも外から観察しているように考えている」みたいなことも言っていたっけ。
では、インターネットはどういうメディアなんだろうか。
インターネットは難しい。新聞や雑誌やテレビはそれぞれが固有の媒体であるけれど、インターネットはコミュニティやサービスの違いはあれども、リンクを踏むだけで繋がることができる。
それに加えて、問題なのは全体像が見えないことだ。メディアはそれぞれが性質を持っているが、「インターネット」は複合的で集合的で、掴みどころがない。その性質を分析したところで(たとえば、「SNSで繋がる若者は~」と主語をとってもそれに関して「正しい」ことは言えない)、ほとんど嘘か妄想になってしまうような気がする。
一方で、インターネットを使う人々はあくまで個人であり、常に個人である。だから、インターネットとの関わりも人それぞれである。
スタンドアローンコンプレックス。そう、スタンドアローンコンプレックス。(言いたいだけ)
脇道にそれてしまったが、インターネットにある情報は、常に不特定の誰かの解釈にさらされているのにも関わらず、そこに「文字」の形跡だけが残ってしまう。検索して行き着くのはそういうところだ。けれども、インターネットの性質から、そう言った姿は覆い隠されてしまう。
グダグダ書いてきたけど、結局何が言いたいかというと、僕が知りたいことだけが載ってるスーパーインターネットを新しく作ってくれってこと。
こうしてまた、インターネットに無駄なエントリーを放出して自己満足を得て、何食わぬ顔で生きていく。