孤独にそっくり

開いている窓の前で立ち止まるな

雑記0715

目の窓

こんにちは。
もうすっかり夏だと思っていたのですが、まだ梅雨明けもしていないそうで、変な感じがします。7月に入ってもう半分過ぎましたが、とめどない時間の流れにおびえるばかりで、やりたくないことをやらず、考えたくないことを考えず、現実逃避ばかりの茫洋とした毎日を過ごしています。
僕が小さいころよくしていた妄想の一つに、「他人の目で見る」というものがあります。たとえばクラスで人気者のあいつの目から見たら、頭のいいあいつの目から見たら、世界はどんな風に見えているのか。僕は妄想の中で、彼ら頭の中にいて、窓のようになっている両目を通して世界を見ます。その両目から見る手や足や声は、当然ながら僕の意思と関係なく動くわけです。僕はただ、それを眺めているだけです。どうやら、小さいころから他人になりたかったようです。

ジレンマ

どうしてこんなに生きづらいのか。その問いは常に僕の周りを漂っています。生きづらさの原因のひとつはきっと劣等感だと思います。どうして他人のように上手くできないのか。確かに僕も、世間一般から見れば他人よりも多少マシなこと――例えばそこそこの学歴があるとか――はありますが、僕よりすべて優っている人間は世の中にたくさんいるし、それを無視することもできません。自尊心を満たすために必要なのは相対的な評価ではなく、自分が自分自身に与える絶対的な評価です。僕みたいに性格がねじ曲がっている人間は、他人を羨んで憎むか、蔑むことしかできませんが、一方で、僕は自分のことが特別で、他人とは違うんじゃないかと考えている節もあります。いい加減それなりに年をとっているので、客観的に見ればありえない話ですが、確かにそう思っているらしいのです。つまり、他人を見下し自分を愛でながら、他人を羨み自分を卑下する、そういったアンビバレントな状況に僕は常に置かれています。この不自然なジレンマはいったい何でしょうか。僕には僕がわかりません。どうして僕は僕であって、他人ではないのでしょうか。

脳への疑い

こんなことになってしまった一因は、自分の「脳みそ」に対する不信感です。僕は小さいころから算数なら計算間違い、国語なら漢字の書き間違い、問題文の読み間違いや言葉の順序の転倒、英語ならスペルミスなど、山ほどケアレスミスをしてきました。そのたびに、「落ち着きがない」「詰めが甘い」と言われて嫌な気持ちになったものです。しかし、年を経てもそれは一向に治りませんでした。それで、高校くらいからあることが頭を離れなくなりました。つまり、端的に言うと、僕は自分がADHDなのではないかという疑いです。僕の頭の中の論理は散漫で、あらゆる物事を判断するときに自信がありません。だから僕は「なんて僕は素晴らしい考えを持っているんだ」と思いながら、同時に「どうせ間違っているに違いない」と思うのです。そして、すぐに何もわからなくなります。何でも病名をつけるのは好きではないので、あるいは僕の特性として受け取れるかもしれませんが、僕にはそれが嫌でたまりません。どうしてこの脳みそはいつもかすんでいるのか。無意味な問いを繰り返してしまいます。

苦痛

脳への疑いは、僕の苦痛の一面的なものでしかありません。たとえ、それが科学的な原因だとしても、僕が僕であることに変わりはありません。僕の性格が内部の構造的欠陥によって説明可能だからと言って、それがすべてを占めているとは僕には思えないのです。僕と同じような状況でもそれを受け入れて、それなりに幸せに生きることができる人もいると思います。あるいは、僕がなんでもできる完璧超人だったからといって、この苦痛が消えてなくなるようなことがあるでしょうか。僕にはそうは思えないのです(そう断言しながら、僕はまた自分の脳を疑います)。では、本当の苦痛の原因は何でしょう。そう問うた時に、僕は「実存主義」や「アウトサイダー」のような言葉を思い浮かべます。つまり、僕の目の前には見えないだけで、確かに「死」が存在しているという気がして、恐ろしくなります。(と書きましたが、これはすり替えのような気もします。本当に僕は「死」を意識しているのか、ただADHDであるがゆえに苦しいのではないだろうか。もし完璧超人だったら、果てしなき幸福を得ているんではないか。それについてはわかりません。僕には、わからないのです。)

死の苦しみ

人生に対する不安を「死の苦しみ」と言い切ってしまう自信が僕にはありません。それもまた欺瞞ではないかと常に疑っています。しかしながら、苦痛は確かにあります。ただ、苦痛だけが本当にある気さえします。この耐え難い苦痛への対処法として僕がいま考えうるのは、放蕩にはしるか、狂人になるくらいです。しかし、それも僕にはできません。ジャンキーになることも、すべてを擲って引きこもりかニートになることも、色情狂いになることも、僕にはできないのです。そういった自己破滅的行動、ある意味で振り切った合理性を僕は持っていません。僕の中の常識が、それをさせません。いくら説き伏せようとしても、断固として拒否します。この苦痛と常識は、僕の内側から出てきているはずなのに、どうして制御できないのか、そうして僕はまた、こう問います。僕はなぜ僕であって他人ではないのか。

他人

そこまで行き当たったときに、では、他人はなぜ他人でいられるのかと問い直します。僕は意地の悪い人間のなので、「あなたが価値があると思っているものは、価値があるんですか」と聞きたくなってしまいます。価値なんてものは、自分で決めればいいものだと言われればそれまでですが、一方で、それを自覚的に理解していない人々に対して、僕は嫉妬してしまうのです。きっと、僕みたいな人間ばかりになったら大変だとは思いますが、本を呼んでいると、似たような考えを持っている(もちろん僕よりもずっと頭がよい)人々のことを知れます。どうやら、問うことそのものには、意味がありそうだ、というのが僕の実感です。

最後に

思ったことを支離滅裂に書き連ねてみました。僕が言わんとすることは、コリン・ウィルソンアウトサイダー』の上巻に明晰に書かれているので、いつかこのブログでもまとめてみたいのですが、残念ながらいまはそんな気にはなれません。僕からすると、宇宙や深海と同じように、他人というものはまったくの未知であって、そこには越えがたい壁がありますが、そんなことを思っていたら、休日が終わってしまいました。考えて書こうとしても思い浮かばないし、考えずに書くと滅茶苦茶になってしまうから、文章を書くのが下手だなとまたしても劣等感に苛まれるわけですが、ウジウジするのはそろそろやめておきましょう。