孤独にそっくり

開いている窓の前で立ち止まるな

雑記0831酔っ払いの戯言

(9月8日追記)読み返したら適当なことをつらつら書いていて恥ずかしい。

 

こんにちは。もう8月も終わりですね。

昨日から応用情報の勉強を始めました受かる気が全くしません。そもそも勉強が得意でもなく、好きでもない自分が大学院まで来てしまったのはこの世界の謎の一つですが、「社会」に抱いている恐怖というのがそれほど根深いことの証左だと思います。そして、就活でアピールすべきこともないので、資格でも取るかなんて安易なことを考えて勉強に向き合わねばならなくなるなんて皮肉です。

ひとりで焼き鳥屋にいます。8月6日以来です。

 

 

最近は、世界文学もいいけどたまには日本の近代文学でも読むかと思って芥川龍之介の『羅生門、鼻』、川端康成の『眠れる美女』、三島由紀夫の『仮面の告白』を読んでみました。どれも短いのでサクサク読めました。

「世界文学を読まずに日本文学なぞ読めるか」とケチな考えを持っている僕ですが、やっぱりここらへんの人たちの作品はとても面白いものです。

(以下の感想は原文を参照せず、飲み屋で記憶を頼りに書いているので間違いが多いかもしれません。)

芥川龍之介を国語の授業以外で初めてまともに読んだのは『河童、或阿呆の一生』ですが、そのときの印象は「楽しいようで陰鬱」でした。「河童」は河童の王国に紛れ込んだ男の話?でとてもユーモアに満ちていましたが、「或阿呆の一生」は陰鬱なアフォリズムだったと記憶しています。

『鼻、芋粥』は、「河童」寄りの話が多く、新鮮さがありました。解説を読んだところ、「鼻」は夏目漱石に最初に認められた作品だったらしく、溢れ出る若さのようなものがあったと思います。芥川龍之介が若くして死んだことは置いておいて...。印象深いのは「羅生門」ではなく、「邪宗門」です。聖母マリアを信仰する男と、一風変わった貴族が出てくる話なのですが、話の途中でぶつ切りになっています。続きが気になって仕方ありません。

次に読んだのは川端康成の『眠れる美女』でした。耽美主義や悪魔主義といえば、谷崎潤一郎の十八番かと勝手に思っていたのですが、川端康成も中々の変態。表題の「眠れる美女」は睡眠薬で眠らされた女を老人が夜をまたいで弄ぶという話です。これが変態じゃなくてなんなのか。解説が三島由紀夫で、谷崎潤一郎とは違った美を見つけた川端康成を偉く小難しく褒めていました。三島由紀夫川端康成に傾倒していたらしいですね。どんな風に褒めていたのかは忘れました。このハイボールは3杯目です。かの作品では、ひたすらねちっこく「眠れる美女」の匂いや肉体を愛撫しながら、自分の過去を想起する老人は経験豊富すぎて羨ましかったです。確かその精緻な解説を読んで、三島由紀夫を読もうと思ったのでした。

ともかく、この三つの作品で一番衝撃だったのは『仮面の告白』です。三島由紀夫は前に『不道徳教育講座』を読んで痛快な文章ながら、「なんてめんどくさいやつなんだ」という印象を拭えず読むのをやめてしまって以来の邂逅でした。

この『仮面の告白』は三島由紀夫の初期の代表作らしく、あの福田恆存が戦後の日本文学の大きな収穫(仔細な文言は忘れました)と言っていました。僕は読んでみて、世界文学にも匹敵するこのエネルギーに打ち負かされてしまいまし。確かに芥川龍之介川端康成も良い。それぞれ、芥川龍之介は世界文学のもつ理性と日本の古典文学とを混ぜ合わせたような味わいがある(古典文学なんて読んだことありませんが言ってみました)。川端康成は別の方向で独自の世界を展開した。しかし、この『仮面の告白』ほどのインパクトはあるだろうか、と僕は自問するのです。

 どうして『仮面の告白』はそれほどまでに衝撃だったのか。ひとつには、ホモセクシャル的な主題があります。それはホモセクシャルではなく「ホモセクシャル的」なのです。かの主人公は決して男全てに欲情するわけではありません。男のある一部、よく出てくるのは脇に生える「草叢」ですが、そういったものに欲望を覚えるのです。それこそ、「フェチズム」といえるではないのでしょうか。ここに僕は、谷崎潤一郎川端康成のような耽美のかをりを感じます。

次に驚いたのは主に福田恆存が指摘していた「白を黒という」ということです。この『仮面の告白』というタイトルは、真面目に捉えるとホモセクシャルな男がそれを隠して生きる苦痛を示しています。それも確かにひとつの捉え方でしょう。ただ、そこには取りこぼされた意味があります。それは我々が何かを語るときに「仮面」を付けざるを得ないということです。作品中で主人公は、否、三島由紀夫は「仮面」をつけて物事を語ります。男について、女について、不能について、それらは「仮面」のしゃべる言葉にすぎません。そして、言葉とは常に不確かであやふやなものなのです。そこに、問題があります。

あらゆる物事が理路整然に書かれている『仮面の告白』においては、むしろその「言葉が抱える不完全さ」が沸き立ちます。それは、現実と非現実の間を曖昧にする『ボヴァリー夫人』や『ドン・キホーテ』を思い起こします。物語の限界に達すると、現実に対峙せざるを得なくなるあの物語の魔力を『仮面の告白』は持っています。だからこそ、「白を黒という」あの矛盾が湧き立つのです。

ハイボールも4杯目になり酩酊状態なので支離滅裂な駄文はそろそろやめたいと思います。

 しかしその前に、『アウトサイダー』でコリンウィルソンが激奨していたヘッセの『荒野のおおかみ』について述べさせていただきます。

 その「荒野のおおかみについての論文」の中で、「人間とおおかみのように、自己の内部が二分されている。しかし、それも正しくない。自己は様々な総合である」という旨が述べられていたと思います。僕はそれに同意せざるを得ません。「この社外は糞だ。俺は天才だ。」という悪魔のようなおおかみの囁き(実際には凡人な僕)、そして「俺は凡人だから凡人らしく生きるべきだ」という人間的な「まともな」考え、それらが内部で対決しています。働きたくない。このまま生きて行きたくない。自分とは何者なのか。そんなことを考えている人間にとって、ヘッセは優しく、ときに厳しく語りかけます。

思えばこの日本のあらゆるメディア(テレビ、ラジオ、そしてネットメディアも含めて)は、様々な「戯言」を、もしくは「わめき声」を並べ立てているように思えてきます。これは中二病でしょうか。僕には価値とは、幸福とは、それすらわかりません。働きたくない。生きていくのが辛い。そんなものです。