孤独にそっくり

開いている窓の前で立ち止まるな

雑記1123

ほぼひと月ぶり、はてなからメールが来ていたから思い出したように更新。

季節は進んですっかり寒くなってきました。何やら明日は雪が降るらしいですね。
おそろしや恐ろしや。
風呂の中で書く内容を考えていたけど、こうして実際に書き出すと思い出せない。
と、思い悩んでいたら思い出した。
忘れないように、いくつかトピックを先に書いておこう。

  • 筋トレ、ダイエット、やる気について
  • 劣等感、他人に比べた時間の短さ
  • 学ぶこと、数学
  • 書くこと、生きること―ペソア

筋トレ、ダイエット、気合について

ジムに通いだして、もう8か月くらい経った。ジム代として払ったお金は7万近く?プロテイン代や飲み物代を含めたら、そこそこの金額になると思う。
肉体的にはここ数ヶ月くらいあまり変化がない。最初の数か月は週3で通っていたおかげか、翌日は筋肉痛になることが多かったけど、最近はそれもない。
ランニングはめんどくさいから省略しているし、各マシンも惰性でやっているような状態。前回から分割法を取り入れて、身体の前後に分けてトレーニングするようにしたけど、効果は今のところ不明。

一方で筋トレとは別に、最近ささみ置き換えダイエットを始めた。そのおかげか、2kgくらい痩せたし脂肪も少しずつ落ちてきたような。
方法は、晩飯にお米を食べるのをやめてささみを食べるようにするだけ。とても簡単でささみは調理を工夫すれば案外しっとりしていておいしいので続いている。
でも、2kg落ちた後からはまた停滞期に入った。朝昼バランスよく食べるために定食屋によく行くようになったし、間食もしているから平衡状態なのだろうか。食べすぎ?
もう2kgは落としたいけどさらに厳しい食事制限をすべきなのか・・・悩むところ。
早く腹筋バキバキの理想的な肉体になりたいと日々妄想しています。

筋トレについて思ったこと。まさに今日、筋トレをしていて思ったのが、「やる気」って大事だなってこと。
例えば、チェストプレスでいつもの重さをやる。1ヵ月も同じ重さでやってると慣れてくる。
同じ重さのままで回数をやるとそれなりに疲れるけど、何か物足りない。次の日も筋肉痛がない。
そんなときに、「俺は出来る出来る!」みたいに全身にやる気を漲らせると、意外といつも以上の重さでも軽々持ち上がったりすることに気が付いた。
そうすると、「この重さでもいけるんや」みたいな感じになって、次から楽にあげられるようになる。気がする。

ただ、筋トレは重ければいいってわけじゃなくて正しいフォームでやればそんなに重くなくていいというのも難しいところ。惰性でやっていると自分が楽な姿勢を見つけちゃって、フォームが崩れがちだと思う。
反省点は多い。僕みたいに自分に甘い人間だとなかなか進歩しないみたい。
あと、チェストプレスだと50kgくらいは上がるけど、ベンチプレスだと40kgで結構キツイのは何だろう。腕の筋肉がないのかな。
ベンチで自分の体重くらいあげられるようになりたい。でもベンチはつぶれそうで怖いからあまり重くできない。

劣等感、他人に比べた時間の短さ

僕は劣等感がすこぶる強い。すべての人間に劣っているように感じてしまう。何とも生きづらい。もし、こうだったらをひたすら考えている。時間の無駄なのに。
ただ、劣等感が強いのは実際に頭が悪いからだと思う。例えば、ゲームなんかだと、ゲームがうまい人と下手なひとは明確に分かれる。
僕は下手なほうだけど、考えなしにやっているせいだと日々痛感する。
ゲームがうまい人は、ちゃんと自分の頭で考えている。どうすれば勝てるのか、なぜ負けるのか、そういう分析をしている。
僕はそういうことを考えるのが苦手で、簡単なパターンを繰り返して勝てるゲームじゃないとダメだ。
高度な心理戦や読み合いが必要なゲームはとても弱い。昔、麻雀でひたすら負け続けたことがあったけど、今思えば当然だと思う。
僕には、「手配がバラバラで勝てる見込みがないときに降りる」とか、「ここでは絶対に振り込んではいけない」とかそういう判断ができない。
大局観がないというか、やっぱり頭が悪い。普通に考えればわかるのに、普通にすら考えられない。こんなにつらいことがあるだろうか。
そういったことを理解した始めたのはここ最近になってからだ。自覚的になったからと言って、それが治るわけでもない。
今でも大局を見落とし、物事の裏にある意味には気が付かないまま生きている。スカスカな時間を生きている。

ゲームがうまい人は上達にそんなに時間を要しない。何が必要で、何が考えるべきところか理路整然としている。
そういう人たちの時間は濃密で、有意義だ。(ゲームに費やす時間が有意義か否かはおいておく)

そんなことを考えていたら、僕は愕然とした。僕が過ごす膨大なスカスカな時間と、そういう賢い人たちの過ごす、濃密な時間。
これはとんでもなく比べ物にならないほどの差を生んでしまうんじゃないかと。
ゲームだけじゃなくてもそうだ。ちゃんと勉強をしてきた人たち。音楽に身をやつしてきた人たち。芸術に没頭してきた人たち。創作に魂を燃やしてきた人たち。
僕は?この宇宙よりもスカスカな時間の中で、何を積み重ねただろうか?人間が時間の積み重ねだとしたら、僕はまだ子供だ。
それが、他人と対等に渡り合えるわけがないじゃないか。そんな状況をひっくり返せるのは卓抜なアイディアを持っている天才だけだ。
そんな諦めの苦い味だけが僕には感じられる。またしても、劣等感が膨らんでしまった。

学ぶこと、数学

筋肉痛と肩こりでタイピングがつらくなってきた。
最近、久しぶりにちゃんとした数学っぽい授業を受けていて、数学って面白いなーと再確認している。
好き嫌いはおおむね教えた人のせいだと思うが、大学に入りたてのときの微積は好きだった。線形代数は嫌いだった。(というか単位落とした)
でも線形代数は嫌いだったけど、ちゃんと勉強したら面白そうだとは思った。当たった先生が悪かったな。
新潮文庫の『フェルマーの最終定理』や『素数の音楽』や『四色問題』や『ケプラー予想』、何の文庫か忘れたけど、『リーマン予想』、『ポアンカレ予想』なんかも読んだと思う。数学に人生を費やした(多くの数学者は棒に振ったけれど)話は、ロマンにあふれていると思う。
理系インデックスなんか見ると、基礎から全体を勉強したくなるが、いつになったら実現するのかは不明。
あと、『カオスとフラクタル』って本も、積読している。プログラムで書いたら面白そうだなと思って買った。いつになったら読めるやら。

カオスとフラクタル (ちくま学芸文庫)

カオスとフラクタル (ちくま学芸文庫)

数学は好きだけれど、いかんせん得意ではない。抽象的な公式の導出とかは好きだけど、頭が悪いので応用問題は解けない。解けるのはもっぱらパターン化された問題だけ。あとは運。
不注意だから計算も足し算引き算レベルで間違えるし、文字列でも移行の時に符号を間違えたり、字が汚くて読み間違えたり、今まで数学でいい点を取った記憶がない。
もし、もっと計算ミスがなくて、頭が柔らかければなと何度思ったことか。
それとは別に、最近思ったのは、プログラミングと数学の組み合わせは自分の性に合っているんじゃないかということ。
プログラミングにやらせれば、計算ミスもしないし!みたいなことを思っていたけど、その前にプログラミングのコーディングの段階でミスするから無理だった。
くそめ。

書くこと、生きること―ペソア

フェルナンド・ペソアの『不穏の書、断章』を読んだ。

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

はっきり言って、むちゃくちゃ面白かった。これは繰り返し読むべき本。
ボルヘスドゥルーズカルヴィーノなんかの言葉でハードルが上がった後に、前半の「断章」を読んだけど、正直ちんぷんかんぷんだった。
そのあと、「不穏の書」を読みだしてから見る目が変わった。ペソアは僕だ!みたいな感じ。
自分で考えていること(考えいたと思っていたこと)がそっくり書いてあったり、はたまた慧眼に感服したり。忙しかった。
毎日少しずつ読み進めていたけど、最後のほうは読み終わるのが勿体なくて小分けにして読んでいた。
ペソアはアウトサーダー的というか、実存主義っぽいけど、ちゃんと「生活」みたいなものがあるのが面白い(その象徴としてのヴァスケス社長?)。
それに、考えること=書くこと=生きることみたいなことは明確に言ってはいなかったかもしれないけど、そんな雰囲気のことを言ってたと思う。(たぶん)
ちょっと小林秀雄みたいだなと思った。
ペソアみたいな現実への立ち向かい方は、勇気がもらえる。
疲れたからペソアについてはいつか読み返してちゃんと書きたい。きっと書かないけど。

総括

相変わらず人生は進まず、中二病も止まず、生きづらいままです。
就活やら研究やらに殺されそうになりながらも、「詩人になるか、さもなければ、 何にもなりたくない 」とは口が裂けても言えないひ弱な僕は、ただ時間に流されています。
手短な快楽におぼれ、ひと時の満足を得る。嗚呼、虚し。
でも、ペソアは勇気をくれる。こういう本を読むと、僕はもっと読書をしなくてはいけないと思う。
今読んでいるソローキンの『青い脂』も、ようやく地獄のような書簡パートを抜けたのですいすい読み進められそう。
書き出してみるといろいろあるみたいだけど、実際は何もない、この悲しみに満ちた人生で僕はまだ進まねばならないのだろうか。
こんなことを書きながら、悲観はしていません。
僕がうつ病にならないのは、頭が悪いのと、中二病なおかげでしょう。リプス、大便、白痴、肛門、你媽的。