孤独にそっくり

開いている窓の前で立ち止まるな

西部邁、福田恆存氏

西部邁先生が亡くなられた。川に飛び込んでの自裁だったそうだ。

ちょうど先だって先生の『ファシスタたらんとした者』を読み、次いで福田恆存の『人間の生き方、ものの考え方』を読んだ。
どちらもとても分かりやすく、そして強さを持った本だった。

西部先生との出会いはどこだったろう。
確か宮崎哲弥が私の師匠とか言ってて、そこから西部邁ゼミナールを見て、何て頭のいい人なんだろうとびっくりして動画を漁ったのが出会いだったろうか。
ユーモアを交えながら話す姿は、馬鹿馬鹿しいコメンテーターや評論家とは違って親しみやすい印象を与えてくれた。
それから西部先生の話している姿が好きで、毎週録画して見るようになった。
去年はどんどん衰えていく姿に目も覆いたくなる気持ちだったが、弁舌の鋭さは相変わらずで、今年もそれを楽しみにしていた。
それだけに、亡くなられたのはとても悲しい。

ものすごく簡便にまとめると、お二方の問題意識というのは「今の日本」というものが如何におかしな世の中であるかということだ。
西部先生風に言うなら「モダン(現代)」は「モデル(模型)」が「モード(流行)」する、大量模型人の時代である。
あるいは、福田恆存風に言うなら「言葉が混乱」した時代であって、「近代化」ではなく「西洋化」した日本の危険性を問うている。

今の日本は欧米(もっというと巨大な実験国家としてのアメリカ)的な資本主義・民主主義、価値観の下に成り立ってしまっている。
それも、欧米よりもさらに過剰な形で行われているため、じわじわと病理のように広がっていて、馬鹿げた事を引き起こす。
時事の問題をいちいち書き立てる気も起らないけど、ほとんどの原因はそこにあると言っていいと思う。
つまり、何が良くて何が悪い、価値とは何か、人生とは何か、人間はどう生きるべきか、孤独とどう付き合うべきか、そういう問題が全部棚上げにされて話が進んでいる。
それどころか、考えもしない。

僕としては究極的には人生には何の意味もないし、退屈で適当にみんな生きてる「ふり」をして死んでいくんだと思っている。

お二方はそこまでとはいかないけれど、実存の問題や人間の孤独について深く考え、そして示唆に富む言葉をたくさん残してくれた。
だからこそ読む意味がある。
つまるところ、僕ら(あるいは僕だけかもしれないけれど)が考えるべき問題は人間そのもの、あるいは死、人生についてであって、その先に時事のこまごまとした問題がある。
そして、本質の問題とこまごまとした問題を行き来しながら、多様な分野を横断して俯瞰的に見つめることで、考えを深めていくしかない。
そうしないと、どちらもどうにもならないで、空虚な言葉だけが消えていく。

ああ、けど、それがどうしたことだろうか、いくら訴えかけても大衆に届きはしない、と嘆いて「言論は虚しい」とお二人が言っていたのは仕方がないことなのかもしれない。
やっぱり人生が虚しいんだもの。
まともに考えて生きていくなんて、難しすぎるもの。
「お酒飲んで、セックスして、ハッピー」で終わってしまいたい。
「ああ、なんて退屈なんだろう。虚しいな」といいながらタバコを吸って、死んでいくしかない。
最近「早く終わってしまわないかな人生」とよく思う。
けど、死ぬ覚悟もない。
あんなに頭のいい人たちが虚しく思って死ぬのに、人生に意味なんてあるのか?言葉に意味なんて?

ひどいまとめ方になったけど、西部邁先生のお話がもう聞けなくてとても残念だ。
先生の書いた本は読み続けていきたいです。
ご冥福をお祈り申し上げます。