孤独にそっくり

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【前編】筒井康隆『短編小説講義 増補版(岩波新書)』を読む

小説が書きたい。

そう言い続けて、幾星霜。未だに短編ひとつも満足に書き終えたことがない。

無職になったのを契機に、自分にとってまず必要なのは物語を作る力だ、と映画脚本術の本を読み漁ってみたけれど、読んで満足してしまって身にならないまま数ヶ月が経った。

こうしてブログを更新するために文章を書くことですら、やっとこさ重い腰を上げて実現している時点で、ものを書く才能が、あるいは書き続ける才能がないのではないかと不安になるが、いつかは小説家になるのだと未だに思い続けている。

果たして死ぬまでにこの願いは叶えられるのだろうか。

脚本術の本については、復習も兼ねてそのうち記事にすることにして、今回は筒井康隆『短編小説講義 増補版(岩波新書)』について読んだ感想を書いてみたい。

この本を手にとったのは、脚本術の本は読んだが、小説講座のようなものは読んでいないなと思ったからである。

何かを始めようと思い立つたびにハウツー本のようなものを買い集めて、しかし、結局何にもなれないという悪癖がまたしても発揮されたというわけだ。

筒井康隆氏のことは、何となく知っているが何も知らない。
著作は一冊も読んだことはないが、日本のSF御三家の一人であり、何やらスラップスティックやら実験小説やら面白い小説をたくさん書いていると聞いたことがある。

ついぞ手にしたことがないのは、そもそも日本の作家にあまり親しみがなく、どちらかと言えば海外の作家でまだまだ読めていないものがたくさんあるからというただ、それだけだ。

そういう意味でいうと、この『短編小説講義』はディケンズマーク・トウェインやトオマス・マンやモームのように海外の大作家の短編をもとに書かれていて、とても親しみやすかったのも、手にとった理由の一つと言える。

むしろ長編は読んだことがあれど、短編は読んだことがないものばかりであったので、新鮮ですらあった。

さて、この増補版は、以下の構成になっている。

  • 短編小説の現状
  • 各短編の解説(ディケンズ、ホフマン等など)
  • 新たな短編小説に向けて
  • ローソン『爆弾犬』(増補版追加)
  • 筒井康隆『繁栄の昭和』(増補版追加)
  • あとがき
  • 増補版のあとがき(増補版追加)

この本の主要な主張はほとんどが始めの「短編小説の現状」に書かれているからして、ここを仔細に読んで、それから各短編について思ったことを少し書き足していこうと思う。

短編小説の現状

まずはじめに、筒井康隆氏は抜群に文章を書くのが上手い。そして頭がとても良い。

淀みなく流れるように書かれた文章はどこをとっても無駄がなく、いちいち的を得ている。
とにかく読んでいて作家というのは頭が良くないとなれそうもないなと嘆息してしまうので、この章だけでも、ぜひ読んでいただきたい。

とはいえ、自分のアウトプットのために簡便にまとめてみる。

短編小説の現状(前半)

短編小説の現況について以下のように述べている。

  • まず、小説とは、詩や戯曲に比べ、最も新しく、かつより自由な文学形式である。
  • しかし、巷に小説作法のようなものが出回っているのは、日本人の芸道好きの性向が、小説を芸道化しており、また、文学新人賞においても「最近の傾向と対策」といった形で受け止められつつあるのである。
  • 結果として、古典の名作と、お稽古ごとを学ぶ作家志望者に二極化しており、「現代小説としての短編小説そのものは次第に衰弱しつつある」のだ。

小説がより自由な文学形式である、というのは何だか意外な気がしたが、この本に通底する主要なテーマである。

詩や戯曲における韻律や三一致の法則から抜け出した形式こそが小説というわけであり、この本で紹介されている短編は形式や技法の新しさがあるというわけだ。

後に「新たな短編小説に向けて」の中でこう述べている。

現代でしか見いだせないようなテーマや内容は、それにふさわしい形式や技法によって書かれなければならず、さもなくば既成の形式、技法によってテーマまでが古臭いものとなり、われわれが飽きあきしてきた作品群のひとつとして加えられるのみである。「形式の革命を伴わない内容の革命はあり得ない」というマヤコフスキーのことばを思い出してほしい。

少し先取ってしまったが、つまりそういうことである。

小説の役割(後半)

後半部分では、長編小説と短編小説の意義について述べている。
これが書かれた1990年という時代柄、ポスト・モダンやポスト構造主義への言及があるが、よく知らないし興味もないのでひとまず置いておく。

ここで問題にしているのは、長編小説は「世界全体を補足するもの」であり、かたや短編小説は「人生をすぱっと切った、その断面のようなもの」であるという共通認識のようなものだ。

結論としては、そんなことはないと筒井康隆氏は述べている。

小説とは自由なものであるからして、長編も短編も、過去の名作をお手本に書く必要はないのだ。

そうはいっても、自由気ままに書けばよいのかというと、そういうわけではなくて、小説を書くときには、その人が積み重ねてきた読書体験(内在律という言葉を用いている)からの影響を受けざるを得ない。

だとするならば、短編小説の黎明期に書かれた作品は、如何様な内在律をもっていたのか、それとも無から創造していったのか、それが以降の章で明らかになるというわけである。

以上が、はじめの「短編小説の現状」の内容である。実に滋養に富んでいるというか、濃密な内容だ。

長くなったので、それぞれの技法については、記事を分けたいと思う。

その他

筒井康隆氏がさらっと書いている中で面白かった事項を抜き出してみたい。

三一致の法則(人物、場所、時間の一致、登場人物の数がある範囲内で一定であること。場所が一定であること。ある一定時間内に出来事が起こり、終わること)

なるほど、そういうものがあるのか。そういえば映画脚本でも、映画内で流れている時間と現実の時間の違いに言及していたりしたな。

日本人の芸道好きな性向

耳が痛い。自分で考えもせず、ハウツー本ばっかり買ってごめんなさい。

他人にああせいこうせい言われて、育ってきたのがよくないざますね。

ひと昔前、哲学は世界の全体像を補足する唯一の小径であると言われていた。やがて哲学が科学にとってかわられ、さらにテクノロジイに対する疑問が出てきて、世界を補足する道は閉ざされた筈である。

平成も終わって令和になってからは、ますます真面目に「世界」とか「価値」とか「真美善」とかそういった話がされなくなってきた気がする。

そういうムツカシイこと言ってる人ってダサくない?みたいな風潮があるのだろう。
あるいは、みんなSNSやソシャゲやYoutubeを見るので忙しいのか。

自分のように生きづらさの塊みたいな人間は、「結局、生きてる意味ってなんなのさ。価値とは」ってぐるぐる考え続ける運命にあるので、未だに文学や哲学にその答えがあるのではないかと思っている。

こんなことだから、行きづらいし、世間とは相容れないのだわな。
頭空っぽでピースしてるほうが夢詰め込めるし人生楽しそう。

まとめ

一冊についての感想を書くつもりが、一章分で疲れ果ててしまった。

明日(といっても、今から3時間後くらい)はハロワに行って、求職活動実績を報告しないと行けないし、ポートフォリオは作り終わらないし、12月に入って2週間でやろうと思っていたことの半分もできていない。

この本をサクッと読めたのは収穫だったと思うが、ついでにどかどか買ってしまった小説作法の本も読まないといけないし、筒井康隆氏が言っているように、「書くためのお手本としてではなく、ただ自分の鑑賞力だけを頼りに、虚心に読み返すことが最善の道ではないか」と僕も思っている。

書くお手本として読む気まんまんだけど、そのうち、今まで読み流してきた好きな作家の短編を、今一度真面目に紐解いてみようと思っている。

主に、チェーホフレイモンド・カーヴァー、フォークナー、フィッツジェラルド谷崎潤一郎、あとはブッツァーティとかかな。

ひとまず、今日は寝よう。ちょっとだけ幼年期の終りを読んで、、、

短篇小説講義  増補版 (岩波新書)

短篇小説講義  増補版 (岩波新書)